DATE 2005. 6. 9 NO .
白い、恐ろしいほど綺麗な顔。
雛人形を見て人の死に顔を重ねるのは、たぶん僕だけ。
いや、母さんも。
何故だって?
何せあんなに綺麗な顔をしているのに、
「…お前ん家の事情はわかるけどさ」
どちらも決して笑わない。
「いつになったら雛人形仕舞うわけ?」
そう思わないか?
「…僕にもわからないよ」
「…お友達、帰ったの?」
「帰ったよ」
「そう」
居間からか細い声が聞こえて、僕は通り過ぎつつ返事をした。あの様子では、僕と竜司の会話が聞こえていたことは間違いない。もうすぐ聞こえてくるであろうすすり泣きが耳に届く前に、僕は足早に階段を駆け上がった。ドアを力任せに閉めた音は、母さんの耳に届いただろうか。…僕の耳には母さんのかすれた声が届くけれど、行儀作法には人一倍うるさかった母さんが、僕がどれほど騒々しくドアを閉めてもその音に気づかない。ただ一日のかなり長い時間を、雛人形を眺めて物思いにふけるか、泣いている。
泣いているのは、決まって僕の友達が帰った後だ。皆季節はずれの雛人形に余計なことを言う。その度に、母さんは一人で泣く。
比奈が死んでから、もう半年くらいになる。突然の交通事故で、このことは父さんと別れたばかりだった母さんをどん底まで突き落とした。
僕だって悲しい。年は離れていたけれど、たった一人の妹だ。それに比奈には何の過失もなかった。昼間から飲酒運転で突っ込んできた運転手野郎のせいだ。
けれど今の母さんは間違っている。
居間には、母さんが実家から持ってきた雛人形が置いてある。古いものだけれど、まだ綺麗ないい人形だ。…けれど今では埃をかぶってしまっている。一番上の段に収まるはずだった彼らは、食事をするテーブルの上に比奈が置いたそのままの位置に居続けていた。
比奈はもう帰ってこない。
母さんがいくら悲しんだところで、その涙は母さんを苦しめるだけだ。
いっそのこと、母さんが比奈のことを忘れてしまえばいい。
そうすれば、少なくとも母さんは、無駄に涙を流すことなく自分の幸せに目を向けるようになるかもしれない。たとえばまた好きになれる人を見つけて再婚するとか、だ。僕は母さんが誰と結婚しようと、母さんが幸せならそれでいい。文句を言うつもりはない。
比奈には悪いけど、さ。…それが母さんのためなんだ。
きっと。
家族で食卓を囲むとき、比奈は僕の向かいに座っていた。だから、僕はいつも雛人形を眺めながら食事をする。…いや、見られながら、かな。ときどき、生きてるんじゃないかと思うから。どっちみち、あまりいい気分じゃないのは確かだ。
それでも、人形の位置を動かすわけにはいかない。一度触ろうとしたとき、それを見ていた母さんは必死になって、僕の手を痛いぐらいに握り締めた。
「やめて、圭吾! 比奈が帰ってくるまでそのまま置いておいてあげて!」
それからいきなり黙り込んで、また雛人形の前で泣き崩れる。
もう母さんは、十分すぎるくらいに悲しんだと思う。だから、もう忘れてもいいんじゃないかな。
忘れなよ、母さん。
その方がきっと楽だから。
珍しく本を読んでいる母さんの背中に、僕はこう言ってやりたかった。けれどその本がアルバムだということに気づいて、やっぱりやめた。
僕が死んでも、母さんはあれくらい悲しんでくれるだろうか。…ふと、そんなことを思った。
けれど、僕が死ぬわけにはいかない。
僕は裁判官になって、あの運転手野郎みたいな奴らを刑務所送りにするんだ。
母さんには、内緒だ。
竜司は、僕の幼馴染だ。だから、僕の家族のことをよく知っている。
でも、母さんのことは理解できないって。
「おばさんは前を向かなくちゃだめだ」
僕だってそうしてほしい。
「…比奈ちゃんが死ぬ前には戻れなくったってさ。いい加減あれにしがみつくのはやめたほうがいい。おばさんも…」
竜司は、本当に僕のことをわかってくれている。
「お前も」
でも、このことに関してだけは、僕は竜司のことを理解できない。
僕だってあの人形をどうにかしたい。雛人形がある限り、母さんはいつまでも比奈のことを忘れられないだろう。
けれど、どうして僕が前を向いてないって言うんだ?
それだけ言って、竜司は帰っていった。
また母さんは泣くのだろうか。
それはもう、嫌だ。
僕は家に戻らずに、竜司の帰っていったのとは反対の方に歩いていった。
ここは、僕の一番好きな場所だ。川の傍の土手に寝転がっていると、とても気持ちよくてついうとうとしてしまう。
今日は、草のにおいがやけに強く感じられた。
その中に違うにおいがあるのに気づいて、僕は目を開けた。…花のにおい、かな。
僕の予想は当たっていた。
けれど、確かに花が咲きそうなんだけど、それはまだつぼみだった。それに、どうして僕はここに来たときにこれに気づかなかったんだろう?
僕がそんなことを考えていたら、突然そのつぼみに変化が起こった。
「な、何だこれ…!」
つぼみが開き始めた。それも、早送りをしているみたいな速さで、だ。すぐに小さな花がいっぱいに広がり、薄い赤色が僕の視界を埋めた。
…あれ?
「って、どこだここー!?」
花は間違いなく一つだけだったのに、いつの間にか僕は花畑で寝転んでいた。どこを向いても薄い赤色をした花ばかり。
…と思っている僕にはお構いなしで、花はまた変化していく。
青色と紫色を混ぜたような、そんな色にあたりは染まっていった。茎も結構伸びて、寝ていられなくなった僕は、急いで起きあがった。足元を見ると、さっきまで僕の頭があったところに、もう薄い赤色が顔をのぞかせている。きっとすぐに周りの色に染まる。
花は、それ以上変わらなかった。そっとその花に触れた途端強い風が吹いて、僕は手を引っ込めた。
花が一斉に同じ方向になびいていく。ここがどこだかわからない今の状況も忘れて、僕は、ただただその光景に見入っていた。
花がなびいていくにつれて、僕の前に道ができていく。僕の後ろから吹いてくる風が作った道だろうか。
花しか見えないから、道があるってのはありがたい。不思議と僕は、この道を危ないとは思わなかった。
僕はその道にしたがって、歩いていった。
ほどなくして、花以外のものが視界に映った。小さな泉の傍だ。
ムーミンの仲間みたいな、いや、もっと上から押しつぶした感じの体型の「何か」がいて、その頭の上には明らかにサイズの選択を間違っている小さな帽子が、ちょこんと乗っかっている。…っていうか、人形用か、あれは?
それくらい小さかった。
そんなことを考えていると、突然、「それ」が振り向いた。
(…!)
真後ろで、ほとんど足音らしきものもしていなかったのに、確かに「それ」は僕のほうを向いた。そして僕を認識したのか、のそのそと、まさに全身を使って歩いてきた。
逃げようかと思ったけれど、そいつは世界で最も悪いことができなさそうな顔だった。こんな表情の銀行強盗が来ても、刃物を持っていたって怖くないだろう。寝起きを通り過ぎて、見ただけでこっちまで脱力してしまいそうなぼんやりした表情だった。
「あー」
かなり近くまで来て、そいつは今初めて僕が見えたかのように指差した。
「お前、前にも来た。お久しぶりー」
そう言って、顔からあふれそうなくらいの笑みを浮かべる。とても笑顔がうまいやつだと思った。
けれど、こいつに「お久しぶり」なんて言われる理由はどこにもない。
「僕は君に会った事なんてないけど。…っていうか、君誰? ここどこ?」
「あー、忘れてた。お前、覚えてるわけなかった」
そいつは頭らしきところを掻く。何故か、帽子は微動だにしない。
「おいらは、バク。記憶、食べる」
とんでもないことを言いながら、バクはかなり大きなげっぷをした。
「ちょっと食べ過ぎ」
…ちょっと?
「また何か嫌なことでもあったか?」
また、と言われても困るのだけれど。僕が一体ここに何をしに来たというのだろう?
「ここに来るやつはどうせそう。何かあったなら、食べてやる。…できれば止めてほしいけど。でも、食べるのがおいらの仕事」
「バクって夢を食べるんじゃなかったのか? 記憶を食べるって?」
「どっちもよく似てる。楽しいのはおいしいけど、悲しいのはまずい」
そこまで言って、バクは思いっきりしかめっ面をした。
「前お前が来たときのやつ、めちゃめちゃまずかった! 思い出すだけでまずい!」
一体何だと言うんだ? 比奈が死んだこと以上に悲しかったことって、そんなことあったっけ?
「…で、食べてほしい?」
僕は前にここに来たことがあるらしい。とりあえず、信用していいのだろう。
「僕の記憶じゃない。…母さんの記憶なんだけど、それでもいい?」
「大丈夫―」
「母さんの悲しみを全部食べてやってほしいんだ。比奈が死んでからずっと母さんが抱えてきた悲しみを、全部。比奈のことを忘れてしまえば、きっと母さんはまた幸せになれると思うから」
バクは黙って聞いていたけれど、僕が言い終わってから、何かを確かめるように僕の目をのぞきこんだ。そして、こう言った。
「ほんとに、それでいいのか?」
「え?」
「悪いことしたいんじゃないみたいだから、食べてやる。でもお前はそれでいいのか? いいならすぐにでも食べてやるよ」
迷う理由なんてない。
「いいよ。…頼む」
それが母さんが幸せになるための第一歩なら、比奈の存在が母さんの中から消えることも仕方ないことだと思う。
「わかった。じゃ、食べる」
比奈は、死んでしまったのだから。
「まずそうだけど」
いつかは忘れなければならない。
バクは、頭に張り付いているのかと思える小さな帽子を、大きな手でひょいと取った。そして水気を払うみたいに、ぶんと一振り。
帽子は、嘘みたいにでっかくなった。
「シルクハットだったのか…」
どうやら耳に引っ掛けてあったらしい。帽子があったところには、これまた小さな小さな耳があった。帽子がなかったほうの耳に気づかなかったのも仕方がないと思えたけど、それにしたってやっぱり小さすぎないか?
「…え?」
帽子と耳のことを考えていた僕は、全く気づいていなかった。
「って、わーっ!!」
巨大化したシルクハットが、僕を呑み込もうとしていたことに。
逃げる間もなく僕はシルクハットの中に閉じ込められた。でも脱出しようと騒ぐ前に、外からバクのくぐもった声が聞こえた。
「あったー。これだなー」
一瞬頭に刺すような冷たさを感じて、僕は暗闇の中で顔をしかめた。
「いっただきまーす」
シルクハットが消滅した。一番最初に僕の目に映ったのは、所在なげに辺りを見回す母さんの後姿だった。バクは大きな光るモノを抱いて、大きく口を開けている。
その光がバクの口に収まる瞬間、母さんが僕のほうを向いた。
「…」
本物なのか、それとも幻なのか。その母さんは何も言わない。ただ、僕の目を、黙って見つめているだけだった。
その視線に耐え切れなくて、僕は母さんから目をそらした。
「ふー、まずかったぁー」
バクのとぼけた声が遠く感じる。母さんの姿は、やがて花畑に溶け込んだかのように消えてしまった。
「…何してるんだ?」
とりあえず近づいて、そう聞いてみた。バクは、シルクハットを泉で洗っているみたいだった。じゃぶじゃぶと、こっちにまではねがとびそうなほどだ。
「何って、洗濯。食べ終わったら洗う。これ、当たり前」
バクがシルクハットを引き上げた。小さな泉に、水紋が刻まれる。
「お前、もう帰ったほうがいい」
僕は、その水紋から目が離せなかった。
「じゃ。もう会えないことを祈ってるよー」
僕は正しいことをした。
花畑が、逆の要領で元に戻っていく。
「比奈…」
いつの間にかまた土手で寝そべっていた。変わらない、いい天気だ。…けれど。
何故か苦しかった。
「ただいまー」
僕がこう言う時に返事が返ってくることはない。母さんはいつも同じ時間に買い物に行く。でも今日は少し遅くなったから、きっと母さんはまた物思いにふけっているか、晩御飯を作っているかのどちらかだろう。
でも母さんの声は返ってこなかった。
買い物ついでにどこかに寄っているのだろうか。…僕は、ただそれだけのことに妙に不安を感じた。
花畑の中で見た母さんの姿が一瞬浮かんで、消えた。
「母さん?」
テーブルの上にお菓子が置いてある。そしてそこには、置手紙。
(圭吾へ。ちょっと遅くなると思うけど、留守番よろしくね。今日の晩御飯は、圭吾の好きな野菜カレー大盛りだよー)
「…」
昔の母さんだ。
(追伸 面接がんばってくるね。圭吾のテストには負けないから)
ここだけ半年前に戻された気がした。そして僕だけが置いていかれている。面接…母さんがまた仕事をするなんて。おばあちゃんが聞いたら、きっと泣いて喜ぶだろう。
「ただいまぁー」
母さんだ!
「母さん!」
僕は急いで玄関まで行った。その先には、両手いっぱいの荷物を抱えた母さんが立っている。
「どうしたの、圭吾?」
きっと僕は凄い顔をしていたに違いない。でも、僕は何も言えなかった。
「…圭吾?」
あまりにも幼稚なことだったとは思うけど、僕はいつの間にか母さんにしがみついてた。
「…おかえりなさい」
「?…ただいま」
母さんはちょっとびっくりしたようだったけれど、すぐにまた笑ってくれた。
僕は、ただ嬉しかった。
「僕に勝てるわけないでしょ。…百点なんだから」
母さんの笑顔には、そんな力があるんだ。
僕は、百点を取ったことなんてつまらないことに思えるくらい嬉しかった。僕は母さんの後について居間に入っていった。
…何かが違う。
「あ、れ…?」
ここには昔の明るい母さんがいるけれど。
「ここに、確かにここにいたはずなのに!」
「いた? 何が? …まさか虫じゃないでしょうね?」
「母さん、何言って…!」
ここには比奈がいない。
思わず怒鳴ってしまってから、僕ははっとした。母さんがきょとんとした顔で僕を見つめている。
「…雛人形だよ。僕はここにあったはずの雛人形を探しているんだ」
声が震えないように気をつけながら、僕はやっとのことでそれだけの言葉を紡いだ。
「あぁ、あれね! 圭吾、そんなもの探してたの? もう片付けたに決まってるでしょう? でも、どうしてあんなところに出しっぱなしだったのかしら…?」
母さんの口からこんな言葉を聞くことになろうとは、夢にも思っていなかった。
「…もういいよ」
「圭吾?」
母さんは僕の事を不思議そうに見ていた。
わかっていたはずだ。
「じゃ、僕竜司のところに行ってくるから」
「今から? …気をつけてね」
母さんが比奈のことを忘れたら、きっと幸せになれると思ったのに。…僕はそんなことには耐えられそうになかった。
竜司の言うとおりだ。
僕も、母さんと同じ。
なのに、母さんが比奈の死と向き合う時間を奪ってしまった。
いつの間にか、僕はまたあの土手のところまで来ていた。
「…僕が間違ってたよ」
(ほんとに、それでいいのか?)
バクの言葉が頭に響く。
「だから…!!」
目の前であの花がほころんだ。そして大きく咲き誇り、辺りを覆いつくす。
今度は、最初から泉の傍まで来ていた。
「…また来た」
バクの顔は、心なしか不機嫌そうに見える。
「またまずい?」
僕はなりふり構わずにバクにしがみついた。
「お願いだ、母さんを元に戻して!」
「…にゅ? 何の話?」
大きなあくびをしながら、バクが僕を見下ろす。
「僕わかったよ。あれじゃ駄目だった、母さんは母さんなりに比奈の死と向き合ってたのに、僕が勝手にそれを奪ってしまった。だから、母さんの記憶を戻してほしいんだ」
「ほー…」
「勝手なお願いだとはわかってる。なんだってするから!」
お願いだ…。
「でも、もう食べちゃったけど」
その言葉は僕の頭に強烈に響いた。
「あ…」
「でも、お前がちゃんと覚えてるなら、そこの泉の中を探すといい。欠片から引っ張り出せるかも」
「ほ、ほんとに…?」
「うん、ほんとに」
僕はシルクハットを「洗って」いたバクの姿を思い出した。希望が見えてくるのを感じた。
「ただし!」
バクの意外なほど鋭い声に、僕は現実に引き戻される。
「息はできる。でも声は出すな」
「何で?」
「息ができなくなって死ぬから」
出られなくなるとか言うのかと思った。死ぬのは嫌だけど、その単純な結果に僕は思わず拍子抜けした。
「わかった。ありがとう」
「…お安い御用」
バクは、これぞ本当の満面の笑顔、といえそうな顔をしてくれた。
「どうしてそんなに嬉しそうな顔をしてくれるんだい?」
バクはそれには答えず、ただ首を振ると、僕の背中をそっと押してくれた。
「光に手を伸ばせばいい。それがお前に近い記憶」
「…了解!」
僕は泉に飛び込んだ。
「思い出してくれる人がいる…ちょっとうらやましいな」
泉の水は、とても冷たかった。水底も、暗い。息ができなかったら、到底探索する気にはなれなかっただろう。
僕は、片手を水底に向けた。そうすることで、早く宝物を見つけられるような気がしたんだ。
ふと、その手にほのかな温かみが宿る。
(光…!)
僕は、その光に向かって思いっきり手を伸ばした。
「おにいちゃん」
なぜか懐かしい、比奈の声。
「置いてくよー」
遠くに母さんと…父さんの笑い声。
僕はある衝動を、すんでのところで押しとどめた。「待ってくれ」と、その一言がたくさんの言葉よりも重々しくて。
「比奈、比奈!!」
母さんの悲痛な叫び声。
目をそむけていたのは…僕だ。
僕は両手を伸ばして、光を包み込んだ。温かいと思っていたのに、急にそれは刺すような冷たさを帯びる。
それでも僕は、そこから手を離すわけにはいかない。
僕は、光を抱きかかえた。
また、暗い水底だ。
(もう戻ろう…きっとこれが母さんの記憶だ)
僕が水面に目を向けようとしたとき、視界の端で一瞬何かが光った。
(ひか、り?)
まだ何かあるのだろうか?
すぐ近くまで行ってみたけれども、さっきみたいに手に温かみを感じることもない。でも、同じ光だ。さっきの光と違うところといえば、底に沈みきっていて、今にも消えそうなくらいのほのかな光を放っているということだ。
僕は、おそるおそるその光にも手を伸ばした。
「おにいちゃん」
また同じ比奈の声。けれど今度は懐かしいと感じることはなくて、胸の辺りが苦しくなった。
「ねぇってばー!」
「うるさいなぁ。今行くから待ってろって」
どこからともなく僕の声がする。
「おばさんに、比奈ちゃんのこと見てろって言われたんじゃないのか?」
竜司の声だ。
(…聞きたくない)
僕は唐突にそう思った。さっきの記憶と違って、僕は頭の中に流れ込んでくるこのやり取りに覚えがない。…それでも、何故か怖くて。
「お、おい圭吾! あれ…!!」
『…え?』
聞こえてくる声と僕自身の声が、不気味なほどに重なった。
公園の木々の陰に見え隠れしながら疾走する巨大なトラック、転がったボールを追いかける小さな比奈の後姿。
声だけの世界に、突如として鮮やかな色彩が甦った。
(う、あぁ…)
「比奈ぁっ!!!」
記憶の中の僕の声は、比奈にはちっとも届かない。僕は懸命に走る。
比奈がボールを拾う。そこで大きな影に気づき、クラクションに、おびえて…。
けれど、僕の手は、比奈が気に入っていたワンピースをつかんで引っ張ることも、その小さな背中を思いっきり突き飛ばすこともできず、間に合わなくて。
ブレーキ音が耳をつんざく。
(僕のせいだ)
「…比、奈?」
僕は、トラックのタイヤの傍にゆっくりとしゃがみこむ。比奈の手を捜す。
「早く救急車を!」
竜司の声がした。
「何やってんだよ圭吾!! 早くしないと比奈ちゃんが死んでしまうだろっ!」
後ろから揺さぶられて、僕はうつろな目を竜司に向ける。
「何言って…、ほら、比奈の手はこんなにあたたか、い…」
僕はもう傍観者ではなくて、記憶の中の僕と同じものを見ていた。
赤く濡れた自分の手を。
『うわあああああああっ!!!!』
ごぼり、と音がして、体の中に冷たい水が流れ込む。
苦しい、苦しい…。
光は、明滅して、弱々しい。
(前を向け…)
ここでこれを置いていったら、僕は前に進めない。放っておけば消えてしまいそうな古い記憶。けれどさっきのは間違いなく僕の記憶だ。バクが以前僕に会ったという理由だ。
「来、い…っ」
肺が水で一杯になった気がした。
とても冷たい水だ。
それでも。
この手を離すわけにはいかない。
(ぐ、うぅっ…)
早く、早く水面に上がらないと…。
そのとき、だった。
(また、光…)
それは水面が輝いていただけなのかもしれない。もっとも、バクのいた泉の傍は花の色こそ鮮やかに目に映ったものの、光源といえそうなものは何もなかった。
けれどそのときの僕はそんなことを考える余裕もなくて、自分がもう少しで窒息しそうだというのにその光に手を伸ばそうと必死だった。
馬鹿だとしか言いようがない。
けれど、今はそう思ってはいない。
僕は『光』を手に入れた。
ほんの少し、本当に短い間だったけれど。
比奈の笑顔が、見えたんだ。
「…ご」
誰かが、呼んでいる?
「圭吾!!」
「うわあっ!」
いきなり大きな声で呼ばれて、僕は慌てて飛び起きた。
母さんが僕の顔を覗き込んでいた。草のにおいがして初めて、僕はあの土手で寝転がっていることに気づいた。
「こんなところで何してるの?」
「…」
母さんがこんなところにいる。僕は失敗したのか?
「母さん、雛人形は?」
ちょっと迷ってから、僕はそう口にした。
母さんは一瞬辛そうに目を伏せたけれど、それから僕の目を見て答えてくれた。
「…もちろん、大事にとってあるわ。何故だかわからないけど片付いていたから、さっき慌てて出したところ」
母さんは僕の隣に腰掛けた。
「母さんにはまだまだあれが必要ね。やっぱり、比奈が手にとって一番上に置こうと努力する姿が目に浮かぶもの」
「母さん…?」
母さんはどうしたんだろう? ちゃんと覚えてるのに、僕の目を見てくれている。
「…思い出したんでしょ、圭吾」
「え?」
「あれから全然泣かなかった圭吾が、母さんの目の前で泣いてる」
僕は目元に触れた。泣いた跡があった。
「…今は泣いてない」
「泣いてる」
母さんはこんなに温かかった。僕はそれを知らなかったんじゃない。忘れてたんだ。
「圭吾が事故のときのこと忘れてるって聞いてほっとした。竜司君から話は聞いていたから」
今でも忘れたい。
「でも自分で思い出してほしかった。母さんは、圭吾なら思い出してくれるって信じてたわ。比奈も喜んでくれてると思う」
…喜ぶ?
「比奈がどうして喜ぶの?」
「圭吾…」
「比奈は僕が殺したようなものなのに!!」
ぎゅっと抱きしめられて、僕は口をつぐんだ。涙があふれて、止まらなかった。
「違う。それは違うわ、圭吾」
「じゃあ、なんで…!」
「比奈が死んだことは、誰にも、どうしようもないことなの。母さんも運転手が憎いけど、比奈が飛び出したことも事実なの。見ていたでしょう? 悔しいけれど、比奈に過失がある以上、運転手だけを憎むわけにはいかないのよ」
「比奈の、『過失』…」
僕は、いつから運転手の『飲酒運転』を信じていたのだろう?
母さんは複雑な表情を僕に向けた。笑いかけてくれたんだろうけど、目は笑ってなんかいなかった。
「ゆっくり考えていけばいいのよ。いくら比奈が飛び出したからって、運転手がもっと早く気づいてくれさえしたらって母さんも考えちゃうから」
僕は運転手が憎いよ。
「運転手の人も傷ついているのかもしれない。それでも母さんは彼に会う勇気がないのよ。…神様じゃないんだから、ね。憎むな、なんて無理な話。仕方ないのよ」
でも僕は運転手と同じなんだ。
僕が比奈をちゃんと見ていたら…!
「圭吾には何の責任もない。もしそんなものがあるとすれば…」
「あるとすれば?」
「比奈のことを、忘れないこと」
母さんが、今までと全然違う人に見えた。
「比奈は死んでしまったけど、母さんと圭吾の中で生きている。…それからきっと、父さんの中ででも。忘れることは、比奈の居場所を奪うことなのよ。だから、お兄ちゃんが覚えてたら比奈も喜ぶわ」
「…」
「母さんも忘れてしまいたかった。けどね、何か変な声が聞こえたのよ。息子はちゃんと向き合ったのにお前は何だーって。厳しいこと言ってるのに、何だか寝起きみたいな声だった。でも、こうしちゃいられない、と思って、圭吾を探しに来たの」
(バク、が?)
「だから、圭吾は悪くないのよ」
その一言が、神様の赦しみたいに思えて。
僕は、赤ん坊みたいに泣いた。誰も通りかからなくて助かった、と思うほどに。
何かが洗い流された、そんな気がした。
「…雛人形、埃かぶってるね」
「仕方ないわ。ずっとそのままにしておいたんだし」
晩御飯を食べながら、僕は雛人形を見ていた。最期に見た比奈の顔のように、白い顔をしている。
「…片付けるの?」
不気味に思っていたその顔に、ほんの少し愛着を感じて、僕はそう言った。
「急がなくてもいいの」
母さんは、少し元気になった。まだ本調子ってわけじゃないみたいだけれど、前よりも活発になった。
「いつかは仕舞うことになるだろうけど、その日が来るまではこうしておきましょう」
僕の家には未だに季節はずれの雛人形が置いてある。埃だらけで、食卓のテーブルの上に『いる』。
僕と母さんは正確にいうとまだ立ち直っていないのだろう。
でも、ゆっくりと考えていけばいいんじゃないかなと思う。
ひな人形を仕舞う日まで。
≪あとがき≫
昔ある文学賞に出したもので、他の作品と一緒にではあるんですけど、講評がもらえたんです。
「主人公を簡単に救いすぎではないだろうか」ってな趣旨で。
ちょっとラストが駆け足だったものの、やっぱり主人公には前を向いていて欲しい。
そう、思います。
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